ORIONEWORLD
*ダウジングロッドで鑑定します*
前世鑑定モニター紹介Ⅰ-ⅰ
前世鑑定モニター第一号のMさんとのやり取りをご紹介します。
前世について考えてきた彼女だからこその深い内容となっております。
前世について考えてきた彼女だからこその深い内容となっております。
◆前世で気になっていることありますか?
チベット仏教か禅宗の僧侶をしていたのではないかと思っています。
もしかしたら両方していたかもしれません。
チベット仏教はニンマ派、
禅宗なら臨済宗、ではないか、と自分では感じています。
◆チベット仏教 ニンマ派の僧侶で
テルトン(埋蔵宝典発掘僧)のニャンレル・ニマウーセルでした。
禅宗の僧侶ではなく、臨済宗がチベット仏教に近い部分があり
慣れ親しんだモノとして反応しているらしいです。
チベット仏教にもいくつか派があるのです。
どうも他の派はしっくりこないのです。
チベットが好きな割に
・『セブンイヤーズインチベット』は最後まで観られない(途中で興醒めする)
・ダライラマに全く興味が湧かない
なのでまずゲルグ派ではないと思っていました。
(多分、ダライラマを認めていないのだと思います)
◆面白い! ハッキリしてますね。
教えに関してはかなりストイックだったのではないかと感じます。
始祖の教えを大事にするべき、という保守派だったのかもしれません。
◆始祖の教えが重要と考えていたし、ストイックだったと出ました。
多くのテルマを発掘してますしね。
恐らくその辺りのストイックさや信念が、
人間的な感情と鬩ぎあっていたのではないかと思います。
宗教に関しては、仏教に限らず今も色々と思うところが多いです。
信仰心は、神も仏も全部否定し擲つほどの絶望をしてもなお、
それでもどうしようもなく湧いて来るものではないかと思います。
無理に持つ必要も、持たない人を否定する必要も一切ないはずなんですけどね。
◆やっぱり、信仰を究めてきた人の言葉ですね。
逆にニンマ派の経典とされる
『チベット死者の書』の内容がよく分かったり
チベット香もニンマ派のものを選ぼうとするので
恐らくそうなのだろうと思っていました。
◆経典が理解できるんだ!
感覚的に、何が伝えたいか、
何を伝えようとして書いたのか、
書いた側の気持ちが分かるというのでしょうか。
『チベット死者の書』は解脱のために書かれたかなり懇切丁寧な書で
(ヒントどころではなく、いつどこで何があって何をすればいいかが全部書いてある)
本当に解脱させたいんだろうなあというのがひしひし感じられるのです。
◆当事者としての視点があるのですね。 面白いなぁ。
この世に色々と絶望していたからこそ
より多くの人の輪廻を終わらせ解脱へ導きたい思いがあったのかもしれません。
解脱できなくても、少しでもいいところで次を迎えさせてやろうという腐心を、
最初読んだ時は親心のようなものかと思っていましたが、
今はやりきれない思いの方が強かったような気がします。
◆いろいろ複雑な思いがありますからね。
これからも当時の思いに気づいていくことが増えるようです。
それはありがたいですね。
辛くても「そういうものだ」と収めてしまえる方が、
茫洋と漂わせておくよりも多分、楽になれると思います。
臨済宗の僧侶かもしれないと思ったのは、
寝る前に頭の中に袈裟掛けの僧侶が出てくるようになったのと
既存の宗派では一番好きな精神だったからですが、
そんな風に反応していたのですね。
◆袈裟懸けの僧侶は臨済宗の僧侶で先祖です。 父方の。
供養してもらいたいようです。
出てきたら、声をかけてみては?!
何が云いたいか訊くのもいいし、
供養として何か特別なことを期待されても困るけどー、でもいいし
子孫に期待せずに成仏しろ!でも(笑
前世がチベット仏教高僧だったMさんと繋がりやすいから出てきたようです。
そうだったんですね。
とりあえず穏やかな風貌の僧侶だったので、
良い機会だし公案(臨済宗の禅問答)の意味が分からないところなどを教えてもらいつつ
心残りでも聞いてみます。
父方は因縁や業の深い家で私はかなり前に縁を断っています。
父方の供養だと上がれなくて頼ってきたのかもしれません。
なんとなく、話せばそれで上がる気がします。
◆そのようですね。話せば理解してもらえたと成仏できるそうです。
いい機会なので交流してみて
何か面白いことがあったら教えてください(笑
若い僧に見えるので、
悟り半ばの欲で残ってしまったのかもしれません。
色々、尋ねてみますね。
それを前提として、今も仏教と縁が深いのは、
「前世の悟り残しがあるから」か
「悟りを活かすため」か
もしくはそれ以外の何かか、が気になっています。
◆誰でも前世を思い出し、前世を統合するために、いま縁が深くなっていて
悟り残しがあるから、悟りを活かすため、でもないとでました。
急に縁を感じるようになったのは昨年からです。
上に少し書きましたが、ガイドが変わったのか、
袈裟掛けの僧侶が出てくるようになりました。
以来、禅的な悟りの感覚が理解しやすくなった気がします。
その辺りの統合が欠かせないのかもしれませんね。
続きます。
チベット仏教か禅宗の僧侶をしていたのではないかと思っています。
もしかしたら両方していたかもしれません。
チベット仏教はニンマ派、
禅宗なら臨済宗、ではないか、と自分では感じています。
◆チベット仏教 ニンマ派の僧侶で
テルトン(埋蔵宝典発掘僧)のニャンレル・ニマウーセルでした。
禅宗の僧侶ではなく、臨済宗がチベット仏教に近い部分があり
慣れ親しんだモノとして反応しているらしいです。
チベット仏教にもいくつか派があるのです。
どうも他の派はしっくりこないのです。
チベットが好きな割に
・『セブンイヤーズインチベット』は最後まで観られない(途中で興醒めする)
・ダライラマに全く興味が湧かない
なのでまずゲルグ派ではないと思っていました。
(多分、ダライラマを認めていないのだと思います)
◆面白い! ハッキリしてますね。
教えに関してはかなりストイックだったのではないかと感じます。
始祖の教えを大事にするべき、という保守派だったのかもしれません。
◆始祖の教えが重要と考えていたし、ストイックだったと出ました。
多くのテルマを発掘してますしね。
恐らくその辺りのストイックさや信念が、
人間的な感情と鬩ぎあっていたのではないかと思います。
宗教に関しては、仏教に限らず今も色々と思うところが多いです。
信仰心は、神も仏も全部否定し擲つほどの絶望をしてもなお、
それでもどうしようもなく湧いて来るものではないかと思います。
無理に持つ必要も、持たない人を否定する必要も一切ないはずなんですけどね。
◆やっぱり、信仰を究めてきた人の言葉ですね。
逆にニンマ派の経典とされる
『チベット死者の書』の内容がよく分かったり
チベット香もニンマ派のものを選ぼうとするので
恐らくそうなのだろうと思っていました。
◆経典が理解できるんだ!
感覚的に、何が伝えたいか、
何を伝えようとして書いたのか、
書いた側の気持ちが分かるというのでしょうか。
『チベット死者の書』は解脱のために書かれたかなり懇切丁寧な書で
(ヒントどころではなく、いつどこで何があって何をすればいいかが全部書いてある)
本当に解脱させたいんだろうなあというのがひしひし感じられるのです。
◆当事者としての視点があるのですね。 面白いなぁ。
この世に色々と絶望していたからこそ
より多くの人の輪廻を終わらせ解脱へ導きたい思いがあったのかもしれません。
解脱できなくても、少しでもいいところで次を迎えさせてやろうという腐心を、
最初読んだ時は親心のようなものかと思っていましたが、
今はやりきれない思いの方が強かったような気がします。
◆いろいろ複雑な思いがありますからね。
これからも当時の思いに気づいていくことが増えるようです。
それはありがたいですね。
辛くても「そういうものだ」と収めてしまえる方が、
茫洋と漂わせておくよりも多分、楽になれると思います。
臨済宗の僧侶かもしれないと思ったのは、
寝る前に頭の中に袈裟掛けの僧侶が出てくるようになったのと
既存の宗派では一番好きな精神だったからですが、
そんな風に反応していたのですね。
◆袈裟懸けの僧侶は臨済宗の僧侶で先祖です。 父方の。
供養してもらいたいようです。
出てきたら、声をかけてみては?!
何が云いたいか訊くのもいいし、
供養として何か特別なことを期待されても困るけどー、でもいいし
子孫に期待せずに成仏しろ!でも(笑
前世がチベット仏教高僧だったMさんと繋がりやすいから出てきたようです。
そうだったんですね。
とりあえず穏やかな風貌の僧侶だったので、
良い機会だし公案(臨済宗の禅問答)の意味が分からないところなどを教えてもらいつつ
心残りでも聞いてみます。
父方は因縁や業の深い家で私はかなり前に縁を断っています。
父方の供養だと上がれなくて頼ってきたのかもしれません。
なんとなく、話せばそれで上がる気がします。
◆そのようですね。話せば理解してもらえたと成仏できるそうです。
いい機会なので交流してみて
何か面白いことがあったら教えてください(笑
若い僧に見えるので、
悟り半ばの欲で残ってしまったのかもしれません。
色々、尋ねてみますね。
それを前提として、今も仏教と縁が深いのは、
「前世の悟り残しがあるから」か
「悟りを活かすため」か
もしくはそれ以外の何かか、が気になっています。
◆誰でも前世を思い出し、前世を統合するために、いま縁が深くなっていて
悟り残しがあるから、悟りを活かすため、でもないとでました。
急に縁を感じるようになったのは昨年からです。
上に少し書きましたが、ガイドが変わったのか、
袈裟掛けの僧侶が出てくるようになりました。
以来、禅的な悟りの感覚が理解しやすくなった気がします。
その辺りの統合が欠かせないのかもしれませんね。
続きます。
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